2010/11/08

▼ジョン万次郎と草の根国際交流-平野 貞夫

ジョン万次郎と草の根国際交流 -平野 貞夫
万次郎といえば、平成時代になって米ソ冷戦が終結し、日本人の国際認識を高めようと、小沢一郎氏の提唱で超党派の通称「ジョン万次郎の会 http://www.manjiro.or.jp/ ) を設立した。正式名称を「財団法人・ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター」といい、草の根国際交流を中心に20年にわたって運動が続けられ、「自立と共生」をテーマに、日本一新運動も協力関係といえる。

故里の土佐清水市で「ジョン万次郎祭」に参加した 平野 貞夫氏。『日本人の道しるべ 万次郎の生き方』を講演。

◇平野貞夫:「日本一新運動」の原点(26) ── 小沢氏の国会招致は筋違い

 ▼「ジョン万次郎の紹介-ジョン万次郎とホイットフィールド船長の友情が築いた、「草の根交流」の原点」
1841年、遭難して太平洋の孤島に漂着した5人の日本人漁師が、アメリカの捕鯨船によって助けられました。その中に、万次郎という14歳の少年がいました。聡明で気立てのよい万次郎は、すぐにアメリカ人の乗組員たちの間で人気者になりました。万次郎は彼らから「ジョン・マン」というニックネームをもらい、彼らと一緒にマサチューセッツ州のフェアヘブンに渡り、アメリカの教育を受けました。万次郎は捕鯨船の船長だったウィリアム・H・ホイットフィールド船長に世話をしてもらいながら、英語や科学や航海術を学んだだけでなく、自由、民主主義、寛容の精神等、アメリカの文化・価値観を学びました。
当時、日本は徳川幕府の政権下で鎖国体制を敷いており、国外へ出ることは死刑に値する重罪でした。しかし万次郎は、ホイットフィールド船長やフェアヘブンでの生活を通して享受したアメリカの文明と精神を日本に伝えたい、という熱い思いから、10年間のアメリカ生活の後、日本への帰国を決意しました。万次郎が帰国して間もなく、ペリー提督が来航し開国を要求、鎖国時代は終焉を迎えました。この時、万次郎は、日本の開国及びその後のアメリカ技術文化の紹介に重要な役割を果たしました。
160年経った今なお、ジョン万次郎とホイットフィールド船長の友情は、その子孫の代まで引き継がれています。毎年ホイットフィールド家と中濱家は、CIEが主催する草の根交流サミット大会で、草の根交流の可能性と意義の大きさを私たちに伝え続けています。
(財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター)

◇ジョン万次郎~アメリカの歴史に最初に名を残した日本人-土佐清水市-
◇ジョン万次郎 - Wikipedia