2010/11/09

▼新聞は記者クラブに守られ「ダサい」存在になったと脳科学者の茂木健一郎氏 週刊ポスト2010年10月15日号 

 新聞やテレビなどのメディアについては、従来、権力のあり方をチェックし、時流を読み、これからの国のあり方についてのヴィジョンを示す役割が期待されてきた。実際、そのような力を示した時代もあったが、今や、インターネット上の「改革派」から、すっかり時代遅れの存在と見なされてしまっている。

 かつて、マスメディアといえば新聞やテレビしかなかった。インターネットの出現により、メディア状況が激変しつつある。新たな書き手、今までとは異なる情報の流通ルートが表舞台に躍り出るに従って、新聞やテレビの旧い体質が浮き彫りにされた。

 象徴的なのが、「記者クラブ」制度。それなりの歴史的経緯を背景に誕生したこのシステムは、もはや単なる「談合」組織、自分たちの既得権益を守るための「排除の屁理屈」だとしか見なされていない。限られたメディアによって取材を「独占」し、記事の内容までも各社で「読み合わせる」といった実態が明らかになるにつれて、新聞の「社会の木鐸」としての信用は、地に堕ちていった。

 インターネットは、「自由競争」のメディアである。どんな書き手でも、耳を傾けるべき意見を持っていればアクセスが増え、社会の中に「拡散」していく。そのような時代のエートス(道徳的規範)から見て、「記者クラブ」に守られて十年一日のごとき記事を書き散らす新聞はすっかり「ダサイ」存在になってしまった。若者たちの新聞離れは深刻であり、よほど思い切った改革をしなければ、影響力の低下は止められそうもない。

 先の民主党代表選挙で、菅直人氏に反発する動きがネット上で広がったのも、以上のようなメディアの変質と関係している。菅氏は、旧体制の象徴である新聞やテレビが「好む」候補であった。一方、小沢一郎氏は、記者クラブの廃止を明言していることもあり、「改革派」だと見なされた。

 いわば、「ネット」と「新聞」の対決。今回は「新聞」側に軍配が上がったが、今後はどうなるかわからない。

 マインドセット(人間が自分と世界のかかわりについて考える際の「枠組み」のようなもの)の変化はゆったりしているが、一度動き出すと多くの場合不可逆。日本の社会はこれからどのように変わっていくのか。私たちの将来がかかっている。

(引用「平成維新」)